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〜聖書「重要聖句」講解<65>〜

A.K.

2025年2月2日

《Scripture65 :『するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられた。』ルカ9 : 16》

ルカ9 : 10-17

1)   メッセージのサマリー

神様は、御心の時に、必要で十分な御業を現されて、“為されるべきこと”を成就される。もちろん私たちは、そのような神様の“御業の現れ”をコントロールすることはできない。しかし、私たちに必要な態度は、何もせずに漫然とただ御業の現れを待つことではなく、“現実世界”に囚われることなく“御業の現れ”を待ち望み備えることである。この「五つのパン、二匹の魚、十二かご」の箇所のように、神様は「それが必要な時=“神の時”」に、“神の御業の現れ=奇跡(非現実的な神の御業)”を為され、私たちの“世・よ”的な価値基準による“現実世界”への囚われを打ち砕かれる。そして“世・よ”の価値基準では“最低限以下”と判断されるものでも、神様はその御手によって“必要十分以上”に用いられ、御心を成し遂げられる。


2)   インスピレーション&アプリケーション

弟子たちの目の前にあったのは、「男だけでおよそ五千人」に「五つのパンと二匹の魚(最低限以下の食料)」という現実世界。「どうするんだよ、これ!?食べさせるのは無理に決まっている!」と、現実世界に圧倒され無力感に囚われている弟子たちの姿は、まさに私の姿である。目に見えている現実世界に囚われ「できない」という無力感に囚われそうになるときこそチャンス、神様の“御業の現れ”を待ち望みつつ祈り求めることができるのだ。逆にいうと、全てを自分の力でできる狭い世界にとどまるのであれば、神様の御業が現れるスペースはないということになる。無力感に囚われずに神様から授けられた賜物を最大限に生かし、するべきことに忠実に取り組み、委ねる。神の御心のときに御業がなされる、その実体験に備えて私たちができること、なのである。


3)   メッセージから紡ぐフレーズ

圧倒されそうな現実世界の前でこそ

無力感を乗り越え一歩ずつ進んでゆく。

神様はその中に御業を現される。

© イエス・キリスト誠心教会

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